「オレと一緒になってくれ。」
 さっき別れたばかりの正吉の思いつめたような真剣な表情が蛍の脳裏から離れない。

−びっくりしたぁ・・・

「オレの嫁さんになってくれ。」

−本気だろうか・・・
 正ちゃんは私のお腹の中に別れた黒木の子どもがいることを知っている。それなのに・・・

 蛍は玄関で靴を脱ぎ、のろのろと部屋の真ん中まで歩いてくると、ゆっくりと腰をおろした。
 部屋の中には何もない。およそ、若い女の部屋とはほど遠い殺風景な部屋である。台所には必要最低限の道具しか置いてなかった。行った時と同じように、かばん一つで落石を出てきてしまったので、荷物もない。
 この部屋で長く暮らすつもりならもう少し買い足さないといけないのだが、草太兄ちゃんに工面してもらった20万円に手をつけるのははばかられた。あのお金は子どもの出産費用に取っておかなければならない。知り合いに借金を申し込むのは気がひけたが、今の蛍には他に頼る人もいない。草太が簡単に金を貸してくれたことで蛍の気持ちはずいぶんと楽になっていた。
 今、蛍には先のことを考えるゆとりがなかった。働いている清掃会社もいつまで勤められるかわからない。給料はいいが、妊娠を隠して働いているのでけっこう仕事はきつかった。一日働いて帰ってくると、夕食を作るのも億劫なほど疲れきっていた。妊娠が発覚するより先に自分の体が持たないかもしれない。
 病院に勤めていた時は体力に自信があったのに・・・・

−診療所暮らしで楽を覚えちゃったかな?

いささか自嘲的な気分でそう思った。いつかは終わりが来ると思いながら暮らしていた落石での3年間が、今では遠いことのように思える。
 落石での最後の夜、無造作に蛍を抱いた黒木の暗い瞳は蛍を見ていなかった。黒木の気持ちがすでに蛍にはないことは1年ほど前から気づいていた。唐突に始まった恋は唐突に終わっていた。蛍も黒木も別れるきっかけを欲しがっていたような気がする。
 小さな頃からいつも自分には何かが足りないような気がしていた。友達と楽しく話していても楽しみきれない自分がいることに気づいていた。心の隙間を埋める何かがほしかった。飢えた子どものように・・・それが何かは蛍にもわからなかった。わからないままに渇望していた。
 勇次と付き合っていた2年余りの歳月。幸せの絶頂にいたと思っていたあの時も、心のどこかでそれを求めていた。あのままでも十分幸せだったのに、自ら捨ててきてしまった。

 落石を出る予感はあった。それが確信に変わったのは正吉がたずねてきた夜のことだった。

 正吉に会ったのはほぼ三年ぶりだった。それまでも純と暮らしているということは知っていたけど、ほとんど会わなかったし、会っても話らしい話をしたことはなかった。それが根室に仕事に来た帰りだと、突然電話をしてきたのだ。
 最初は二人ともぎこちなかったが、話を始めるとすぐに一緒に暮らしていた頃の親しさが戻ってきて口調にもそれが表れた。富良野の話や純の話をした後でついでのように正吉はポツリと言った。 

−富良野にはもう戻ってこねぇのか?
正吉が蛍のしていることを快く思っていないことは知っていた。でも、正吉はそのことで蛍を責めなかった。ただ、心配しているのが蛍には痛いほど感じられた。勇次に会いたいばかりに五郎のもとへ行かなかった時も正吉はただ黙って蛍のすることを見ていた。何も言われないことで蛍はかえって責められているような気がした。
 蛍にとって正吉は男というよりは兄かそれに近い親戚のような存在だった。その正吉が蛍を心配し、帰って来いと言っている。蛍はすねた子どものように黙っていたが、心の中に温かいものが広がっていくのを感じていた。

−無条件に私のことを心配してくれる。
そのことが何よりも嬉しかった。

 正吉と別れて診療所に帰った蛍を黒木は不思議なものを見るように見つめた。久しぶりに和らいだ表情の蛍を見たからかもしれない。そして、その夜しばらくぶりで蛍を抱いた。抱かれながら蛍は自分が人形になったような気がしていた。黒木が背中を向けて寝入ってしまった後で、そっと起き上がり、声を殺して泣いた。

−明日、ここを出よう。
寒寒とした気持ちで蛍はそのことだけを考えていた。

 妊娠に気づいたのは診療所を出てひと月ほどした時だった。蛍は診療所を出て根室の町の小さな病院で働いていた。そして、体の変化に気づいた。まさかと思ったが、根室の産婦人科で診察してもらい、妊娠が確実なものとなった。まるで蛍を罰するかのように、黒木と別れた後でやってきた子ども・・・蛍はしばらく待合室でぼうーっとしていた。ここ、2、3日の心配が現実のものとなったのである。
 が、そのことはある程度覚悟していたような気がする。堕胎すことは考えられなかった。自分のしたことに責任をとらなければ・・・蛍が黒木と落石に駆け落ちしたことで、多くの人に迷惑をかけ、悲しませてしまった。おなかに宿った子を闇に葬ってはその人達にも申し訳が立たない、そんな気持ちだった。
 そして、なによりも生まれてくる命がいとおしかった。
 その足で市役所に行き、母子手帳を発行してもらった。窓口の若い女が蛍の名前を記入しながら
「お父さんのお名前やご住所など後で記入しておいてください。」
と言って手渡したが、蛍は父親の名前を書かなかった。今でも父親の欄は空欄のままだった。

−この子は私一人だけで育てよう。
そして、蛍は札幌に出てきたのだった。


 蛍が診療所を出た後、黒木が札幌に帰ったという話を人づてに聞いた。おそらく婦長の待つ家へ帰ったのだろう。その話を聞いたとき、蛍はなぜかほっとした。
 もっと早くにこうすればよかったのだ。
 
 草太にも言ったように、螢は子どものことを黒木に言うつもりはなかった。草太に漏らしてしまったのは失敗だったかもしれない。だが、あの時の螢は疲れていて、無性に誰かに慰めてもらいたかったのだ。不安な心を抱きとめてもらいたかった。
 それが、正吉に言うなんて・・・・予想外だった。
さらに驚いたのはその正吉がプロポーズしてきたことだった。

−結婚してくれ
正吉の言葉が蛍の耳に残っている。おかしな正ちゃん。他の男の子どもを宿している女に結婚を申し込むなんて・・・貧乏くじばっかりひいて・・・と蛍は思う。昔から正吉にはそんなところがあった。ぶっきらぼうなのに、やさしくて、曲がったことが嫌いだった。
 丸太小屋が火事になった時だって、お兄ちゃんはうそをついてごまかしたのに、正ちゃんはごまかさなかった。いいえ、お兄ちゃんのしたことをかばいさえした。
 私は正ちゃんに憐れまれているのだろうか・・・

−おれ達の子にすりゃ
正ちゃんは確かにそう言った。その言葉にあわれみやうそは感じられなかった。
そんなことができるだろうか?いいえ、とてもだめ。
−おれ達の子・・・
黒木が決して言わなかった、そしてこれからも言わないであろう言葉を正吉はどんな思いで口にしたのだろうか。
正吉の好意に甘えるわけにはいかない。
蛍は再びあふれでてくる涙をそっとぬぐった。

                             つづく

                                           
                         その1
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