その日、朝から正吉はそわそわしていた。今日は蛍のところへ行くつもりだった。だから、昼の間に刈っておいたオオハンゴンソウは札幌に送らなかった。
 すでにオオハンゴンソウは5500本目を数えている。よさそうな花を探しているつもりではあったが、盛りを過ぎたオオハンゴンソウに正吉の気持ちはやや焦り気味であった。

−100万本になる前に枯れちまうぞ

 あれから蛍には会ってないから蛍がどんな気持ちでいるかはわからない。みどりに言わせれば
−花をもらって喜ばない女はいない
ということだが・・・正吉には自信がなかった。

−なんてったって、オオハンゴンソウだしなぁ・・・

 勢いに任せて刈り取っているオオハンゴンソウだが、子どもの頃から麓郷の街道で見慣れている正吉には、蛍が喜んでいるという確信のもてない花ではあった。ただ、他に、蛍に自分の気持ちを伝えるすべを持たない正吉にはこの花に気持ちを託すことしかできない。
 1本、1本数えながら刈り取っていくうちに、漠然としていた蛍への想いが確かなものへと変わり胸の中にあふれてくるのを正吉は感じていた。山から流れ出した細い湧き水が低きに向かって流れくだるうちに流れを集め、やがて大河となって海に注ぐかのように・・・
 蛍の細い肩を思い出すたび、正吉はせつなさがこみ上げてきた。シンディの時には感じなかった気持ちである。
 一時期、確かに正吉はシンディに夢中になっていた.。正吉にとってシンディは初めての女だった。新しくおもちゃを手に入れた子どもがそのおもちゃに熱中するように、正吉はシンディを愛した。愛していると思っていた。だが、シンディが正吉との結婚を口にするようになってからは、正吉の気持ちは彼女から少しずつ離れていった。
 どうしてそうなったのか、正吉には今でもわからない。

−4231
てきぱきと家事をこなす蛍

−4232
神社で震えていた正吉を見つけてくれた蛍

−4233
自分の歯ブラシを差し出してくれた蛍

−4234
笑う蛍、怒る蛍。
 そんな蛍の思い出が最後にはいつもプロポーズした時の涙でぬれた蛍の顔と重なる。そのたびに正吉の胸は締め付けられるようになるのである。自分も蛍も今まで幸せとはいい難い人生を歩んできた。正吉はそのことで自分を憐れんだことはなかったが、蛍には幸せになってもらいたかった。

 草太兄ちゃんに言われた言葉が正吉の耳に今でも残る。
−お前にとって黒板家は家族だ。

 翌日にはプロポーズした正吉だったが、これは愛なのか?これを愛と呼べるのか?正吉にはわからなかった。誰かがそうだと言えば、そうかもしれないし、違うと言えば違うかもしれない。しかし、正吉にはこれは運命だという気がしていた。そして、今まで正吉はいつも運命を受け入れて生きてきたのである。


 ドアを遠慮がちにノックすると、蛍が顔を出した。ちょっとびっくりしたような顔をしたが、正吉が来るのがわかっていたようであった。正吉が差し出したオオハンゴンソウの花束をそっと受け取ると、
「あがって・・・」
と声をかけた。
 狭い玄関の壁にパステル調の絵がかかっているのを見て、正吉はためらった。正吉の知らない蛍を見た思いだった。
「どうしたの?正ちゃん・・・」
「いや、きれいな絵だなと思って・・・」
「・・・」
蛍は何も言わずに微笑んだ。もしかすると、黒木にもらった絵・・・正吉の胸がちくりと痛んだ。だが、部屋に入った途端、そんな思いは消し飛んでしまった。部屋いっぱいのオオハンゴンソウがそこにあった。

「すげぇなぁ・・」
正吉は自分で贈っておきながら自分で驚いている。蛍は新しくもらった花をバケツに入れながら思わず笑ってしまった。
「わりぃ・・・入れ物に困っただろうな。」
振り返った正吉がすまなそうに聞く。
「うん、困った。でも、嬉しかったよ。とっても。」
蛍の返事に正吉の顔から緊張がとけていった。蛍の言葉に安心したように笑う正吉を蛍は初めて可愛いと思った。
 蛍が入れたお茶をおいしそうに飲み干すと、正吉は話を切り出した。
「蛍ちゃん、この間のことなんだけど」
「正ちゃん、その話はもう・・・」
「考え直してもらいたいんだ。」
「・・・・」
「蛍ちゃん、オレ・・・今までこんなこと言ったことなかったけど、オレに親父がいなかったこと知ってンだろ?」
正吉の言葉に蛍ははっとした。

「親父どころかオフクロだっていねぇみてぇなもんだったけどな。」
 紅白歌合戦を見ながら、みどりと楽しそうにじゃれあっている正吉の姿を蛍は思い出していた。そうだった。あの時はまだ母さんが生きていて・・・・みどりと正吉の姿に入って行けない壁のようなものを感じて純と蛍は正吉の家を後にしたのだった。そのときの情景は鈍い痛みを伴って蛍の胸を重くする。正吉をうらやましく思った気持ちもよみがえってきた。

「純や蛍ちゃんが麓郷にやってきて、電気も水もない生活を始めたとき、蛍ちゃんは大変だったろうけど、オレ、正直言って純や蛍ちゃんがうらやましかったンだ。親父さんといつも一緒だっただろ。オレにはじいちゃんしかいなかったからな・・・・」
 蛍には正吉の寂しさがよくわかった。蛍が正吉をうらやましく思った以上に正吉はうらやましかったことだろう・・・正吉には「へなまずるい」と言われた杵次のほかには肉親と呼べるものはいなかったのだから・・・・
「だから、純や蛍ちゃんや親父さんと暮らしていた時、オレにも親父ができたみたいで嬉しかったンだ。」
「あんな父さんでも?」
「何言ってるンだ。親父さんは・・・」
「わかってる・・・」

 正吉が五郎に気に入られようと、一生懸命だったことを蛍は忘れてはいなかった。純が五郎に反発していたのに、正吉は五郎のために骨身を惜しまず働いた。そのことがよけいに五郎と純の溝を深めていたのだけれど。

「正ちゃんは父さんが好きだったものね。」
「ああ・・・・オレは親父さんには感謝してる。だからオレ親父さんを悲しませたくねぇンだ。」
「それで、私にプロポーズをしたの?」
「それもある。」
「・・・・」
「親父さんがオレにしてくれたように、オレも蛍ちゃんの子どもにしてやれると思うンだ。」
「正ちゃん・・・・」
「何よりも、生まれてくる子どもに蛍ちゃんやオレみたいな寂しい思いをさせたくねぇンだ。」
「・・・・」
「オレたち、家族になれねぇかな?」
蛍はもう、何も言えなかった。涙が後から後からあふれ出てくる。


「・・・・だけど、正ちゃん。今の私のこと何も知らないじゃない。私だってあれから変わったのよ。」
 涙をぬぐうと、ようやく蛍が口を開いた。正吉は玄関にかかっていた絵のことをちらりと思い浮かべた。だが、迷ってはいなかった。
「オレにとってはいつだって蛍ちゃんはあの頃のまんまの蛍ちゃんだ。それじゃいけねぇのか?」
正吉の前ではいつだって8歳の自分に戻れる。そう思うと蛍は久しぶりにやわらいだ気持ちになった。
「正ちゃんがそれでいいなら・・・」
正吉は大きく息を吸い込んだ。
「じゃあ、オーケーしてもらえるのか?」
ゆっくりと蛍が首を縦に振った。正吉は不覚にも涙がこぼれそうになり、それを隠すために蛍から目をそらした。いつの間にか暗くなりかけた部屋にオオハンゴンソウがいっぱいに咲いていた。

                                     おしまい
                         その3
100万本のオオハンゴンソウ
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送