「快。用意はできたの?早くしなさい。」
玄関で、お母さんがぼくを呼んでいる。
「う〜ん。」
ぼくは気のない返事をした。
今日は、お母さんと、この町にある特別養護老人ホーム【憩いの園】に行くことになっている。
「正子おばさん」のお見舞いに行くのだ。
ぼくは正直言ってあんまり気が進まない。

「正子おばさん」がこの憩いの園にいるのをお母さんたちが知ったのは
ほんとうに偶然だった。

ぼくのお母さんはこの町の病院で看護婦をしている。
病院といってもお医者さんはふたりだけ。親子でやってる小さい病院だから。
院長先生も息子さんの先生もクリスチャンで患者さんにとても親切でやさしい。
この町のお年よりで待合室はいつもいっぱいだ。
院長先生もかなりのお年寄りらしい。
「老人クラブみたいなもんよ。」
口の悪い百合子さんはそう言うけど、桃井さんちもぼくんちも
かぜをひいたりおなかをこわしたりすると、そこに行っていた。
「わざわざお金を払ってまで文句を言われるのはいやだからね。」
百合子さんが言うように、この町にはもっと腕がいいという評判の医者もあるのだけど、
患者さんをしかりとばすので有名だからだ。

この土田医院にお母さんが勤めるようになったのは、桃井さんのおばさんが
紹介してくれたからだ。
夜勤もないし、みんなが親切だから働きやすいとお母さんは言っている。

桃井さんのおばさんは憩いの園の中にある在宅介護支援センターで働いている。
ある日、風邪をひいた入所者のおばあさんを土田医院に連れてきた。
それが「正子おばさん」だった。

正子おばさんは、(まあ、ぼくから見ればもうすっかりおばあちゃんなんだけど)お父さんやお母さんと同じ富良野の人だ。
お父さんと純おじさんが牧場の経営に失敗した時、
おばさんは富良野にいられなくなって、ずっと前に富良野を出て行った子どもの一人に引き取られていったらしい。
お母さんたちが富良野にいたとき、正子おばさんについてわかっていたことはそれだけだった。
その後、
正子おばさんはその子どもにも死なれちゃってお嫁さんや孫とうまく行かなくて
それで憩いの園に入所したらしい。
お母さんが桃井のおばさんに事情を話してやっとそこまで教えてもらった。

それからお母さんは3ヶ月に1度くらいのわりあいで
ぼくを連れて正子おばさんを見舞っている。

お母さんがぼくを連れて行くのは
おばさんの亡くなった息子さんの一人で
草太兄ちゃんていう人にお母さんたちが結婚する時
世話になったからなんだと言う。
でも、なんでぼくが行かなきゃならないのか、ぼくにはわからない。

世話になったのはお父さんとお母さんなんだから
お父さんが行くべきだと思うんだけどな。

「行ってくるよ。」
ぼくは思いっきり不機嫌な声を出してお父さんに言ってみた。
「おう。気をつけて。」
お父さんはこの間から釣りざおの手入れに夢中になっていて顔も上げなかった。
菜々見がお父さんの手元を真剣な表情で見ていた。

ちぇっ。
いい気なもんだ。

ふくれっつらしたぼくが車に乗り込むと、お母さんは車を発進させた。
ぼくたちは無言だった。
途中であかねちゃんと明日美ちゃんがウルフィーを散歩させているのに出会った。
ぼくらに気づくと明日美ちゃんが手を振った。
あかねちゃんはちょっと笑った。

「あかねちゃん、元気になったみたいね。」
「ああ、そうだね。」
ぼくはまだふくれたい気分だった。

「快、なにをおこってるの?」
「だって・・・なんでぼくが・・・」
「え?なあに?」
「なんでぼくがあのおばあちゃんのところに行かなくちゃなんないのさ。
お母さんたちの知り合いなのに・・・
お父さんなんか一度も行ったことないじゃないか!」
言っちゃった・・・

お母さんはそれっきり何も言わなくなった。
ぼくも何も言わない。
重い気分のまま、ぼくたちは憩いの園まで来ていた。

駐車場に車を乗り入れるとお母さんはエンジンをかけたまま静かに話し始めた。

「さっきの話だけどね、快。お父さんはここに来ないわけじゃないの。来られないのよ。」
「どういうこと?」
「お父さんも一度だけここに来たことがあるの。」


お父さんと純おじさんが牧場の経営に失敗したことは知ってるわね。
うん。
お父さんたちは一生懸命やったんだけど、農業には素人だったからうまくいかなかったのね。
それで、たくさんの借金をせおってしまった・・・。
もともとその牧場は正子おばさんと清吉おじさんが若い時から
それこそ働きづめに働いて基礎を築いて
草太兄ちゃんが大きくしたものだったのよ。
その草太兄ちゃんが亡くなって、お父さんたちが後を継いだの。
お父さんたちは何とか頑張ったんだけど、
牛も土地も正子おばさんたちが住んでいた家も
みんな借金のかたに手放さなくちゃならなかったのよ。
おばさんはそれこそ半狂乱になって・・・
快、半狂乱てわかる?
ううん、知らない。
そう、子どもが誘拐された時とかいなくなった時とかにお父さんやお母さんがパニック起こしたりするでしょ。
うん。
そういうときの状態のことよ。
大事なものをなくしちゃったりする時だね。
そうよ。おばさんにとってはそれこそ、命と同じくらい大事なものだったのよね。

それで、おばさんはお父さんたちを責めたのね。
お父さんは一応代表者ってことだったから
純おじさんよりずっと責任を感じていたと思うわ。
おばさんとアイコさんが富良野を出て行くことになって、
だから、お父さんも富良野にいられなくなって・・・

お母さんはそこまで言うと、そのときのことを思い出したのかぽろりと涙をこぼした。

お父さん、責任感が強いもんね。

そうね。お父さんたちのせいで、おばさんもアイコさんも富良野を出てっちゃったのに、自分だけ富良野にいるってことができなかったんでしょうね。

ぼくと、お母さんを置いて?

そうよ。

お母さん、お父さんのことうらんだ?

どうかな? 忘れちゃったわ。昔のことだから・・・

お母さんの口ぶりからは忘れたなんて思えなかったけど、
ぼくはそれ以上聞かなかった。
「でも、正子おばさんは忘れなかったんだね。」
お母さんはぎくっとしてぼくの方を見た。
「そうなの。おばさんはお父さんの顔を見ると、つらかった時のことを
思い出しちゃうのね。もうお年よりだから、そんなにつらい思いをさせるの、かわいそうでしょ。」
ぼくにはなんだかお父さんのほうがかわいそうだった。
「じゃあ、ぼくはお父さんの代わりだね。」
お母さんは、黙ってぼくを見た。

ぼくたちが憩いの園に入っていくと、ホールのいすに正子おばさんが座っているのが見えた。
おばさんの背中は小さく丸まっている。
「おばさん、こんにちは」
「ああ、蛍ちゃんかい。よく来てくれたね。」
「こんにちは」
「こんにちは。純ちゃんも大きくなったね。」
おばさんはぼくを純おじさんとまちがえている。
「まあ、寄ってってよ。そのうち、草太も帰って来ると思うから。」
「・・・草太兄ちゃんが?」
「まったく、しょうがないよね。ボクシングにばっかり夢中になっちゃって、家にはちっとも寄りつきゃしない。」
おばさんはそう言うと、節くれだったしわだらけの手を口元にもっていって笑った。
その手には小さな袋入りの節分の豆がにぎられていた。
学校の給食で3日に配られたのと同じ豆だった。

このホームでも豆まきをしたんだろうか。
正子おばさんはどんな鬼を退治したかったんだろうか。
ぼくは担任の矢部先生が言ったことを思い出していた。

「鬼はどこか外にいるもんじゃないの。自分の心の中にすんでる弱さみたいなもんなのよ。だから、鬼を追い出すってことは自分の中の弱さに打ち勝つってことなのよ。」

それは、4日の豆まき集会の後のことだった。ぼくたちは教室で先生から落花生をもらっていた。落花生なら「鬼は外」「福は内」って言いながらまいた後、拾って食べられるからだ。持ち帰りはなしよって先生が言ったんだけど、ぼくはポケットにこっそり入れて家に持ち帰った。
「学校もおれたちの頃と比べてめんどくせえことになってるな。」
ぼくが持って帰った落花生を食べながらお父さんが言ったっけ。

おっといけない。先生の話だった。
そう、鬼を退治するってことは・・・って言う話をあの時先生がしてくれたんだった。
みんな配られた落花生のことに気持ちがいってたから、半分以上は聞いていなかったと思うけど・・・。

それから30分ほど、昔と今を行ったり来たりしているおばさんの相手を
お母さんがしているのをぼくはぼんやりながめていた。
ホールにはほかにもお年寄りがいたけど、
面会の人はだれもいなかった。
顔は一人一人違うのに表情はみなよく似ていた。
ぼくに気づくとぼくを見るけど、ぼくを見ていない。
ぼくの向こうにいる誰かを見ている、そんな感じがした。



「快、帰るわよ。」
お母さんの声にぼくは救われたような気がして立ち上がった。

「じゃ、おばさん、また来るから。」
「そうかい、悪いねえ、草太がまだ帰らなくって。」
「いいのよ、また今度で。」
「純ちゃん、風邪をひかないようにね。」

ぼくは急いで外に出て、思いっきり冷たい空気を吸い込んだ。
「おにはーそと。ふくはーうち。」
「なによ、それ。」
車に乗ってしばらくぼくは黙っていたけど、やがて思いきって聞いてみた。

「お母さん、正子おばさんの心の中にはどんな鬼がすんでいるのかな。」
「どうして?」
「・・・うん。おばさん、節分の豆を持ってたからさ。」
「おばさんの鬼ねえ。・・わからないわ。・・・だけど、おばさんは心の中にすんでる鬼にすがって生きてるのかもしれない。」
お母さんはぼくにっていうより、半分自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


「快の心の中にはどんな鬼がいるわけ?」
お母さんはいきなり、ぼくに話をふってきた。
「そんなの、いないよ。」
お母さんは笑った。
「そうね、みんながかっくんはいい子だってほめてくれるものね。」
「・・・・」

ぼくは知ってる。
ぼくはほんとはいい子なんかじゃない。
今日だってぼくはちっとも来たいなんて思っていなかった。
ほんとはぼくの心の中には何匹も鬼がいるんだ。
だけど、ぼくにもどうしようもないんだ。

ぼくはお母さんにそう言いたかったけど、黙っていた。


家に帰ると明日美ちゃんが庭にいて車から降りたぼくを呼んだ。
「快くん、ゲームして遊ぼうよ。」
「うん、いいよ。」

居間の大型テレビでゲームをしていると、
小さな包みを持ったあかねちゃんが入ってきた。
あかねちゃんの眉はもうほとんど元にもどっている。
あかねちゃんはしばらく画面を見ていたけど、
そのうちぼくにその小さな包みを差し出した。
「快くん、これ。」
「え、なに?」
「この間、快くんちのお父さんにお世話になったし、あの、・・。」
「これ、ぼくのお父さんに?」
「ううん、ち、ちがうの。これは・・」

「あーあ、これだからお子ちゃまは困るのよね。」
ぼくたちのやり取りをさっきから興味津々て感じで見ていた明日美ちゃんが
百合子さんの口真似をして言った。
「バレンタインチョコに決まってるでしょ。!」
「明日美!」
え?
だって、まだバレンタインまで2、3日あったはず・・

「とにかく、あげる」
ぼくにその包みを押しつけるようにして、あかねちゃんは部屋を出て行った。
明日美ちゃんがにやにやしている。

どうしよう。
女の子からプレゼントなんて初めてだ。
悪い気はしないけど、困る。
困るけど、うれしい。
うわあ・・

「ぼく、もう帰るよ。」
にやにやしている明日美ちゃんを残してぼくはあたふたと桃井さんちを出た。
「おじゃましましたあ。」


「快はなにかあったのか?やけにへらへらしてるぞ」
「さあ?」
夕ご飯の後で、お父さんたちが台所で話しているのが聞こえた。
あれから家に帰ってきて、チョコのことを思い出すたびに自然に笑えてしまう。
今は、何を言われたって許せる気分だ。

ぼくはあかねちゃんにもらったチョコレートの包みをそっと見つめた。

ぼくが生まれて初めてお母さん以外の女の子からもらった
バレンタインチョコだった。

                                           つづく
                       第二話   節分
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